【雑記】インドネシアに居て感じる報道への疑問と不安

こんにちは。
今回は、インドネシアの報道への疑問と不安についての真面目記事です。
お盆期間なので少々おかたい内容を考えてみました。お時間のある時にどうぞ。



この間のレバノンの首都ベイルートでの爆発の映像観ましたか?
二回目の大爆発のソニックブーム、恐怖でしたね・・

原爆のきのこ雲を彷彿とさせる爆発の粉塵に、起きたばかりの頃は「いきなり戦争おっぱじめたか?相手はどこや!」なんて情報も飛び交ってました。

ニュースを観ただけの筆者すら、何も無くなり地形さえもが変わってしまった現場に呆然とするばかり。現場の混乱は想像を絶するものだったでしょう。
犠牲者とそのご家族にお悔やみ申し上げます。


●情報過多の時代


レバノンの一件でまず改めて驚いたのは、『狭い範囲内でも同時間帯に動画を撮っている人ってホントにたくさんいるんだな・・ 』ということ。
様々な角度の映像が、SNSにあがっていました。

SNSには最近思うことがあって(前記事の末尾のリンク参考)・・・
欲しい時に情報をすぐにgetできるメリットがある反面、受け手側はその情報がどんな質のものなのかを判断する能力が問われます。

何が"良く"て、何が"悪い"情報なのかの判断は、個人の価値観や住む環境にも影響されることでしょう。


●物議を醸した一枚の写真

特に最近SNSへの思いを懐疑的にしたのは、下記の記事を読んで深く考えたからということもあります。


インドネシアの病院でフォトジャーナリスト、ジョシュア・イルワンディ氏が撮影したCOVID-19感染で亡くなった方の写真。

イルワンディ氏は、この写真をきっかけにインドネシアの人々が予防措置を取るようになり命が救われることを願っていると、ナショジオに写真を提供しました。

そしてこの一枚が、様々な議論を呼びます(ナショジオの記事より引用)。

"イルワンディ氏の写真がテレビのニュース番組で紹介されると、同国のコロナウイルス対策チームの広報担当が拡散。さらに他のメディアも、イルワンディ氏の同意を得ないまま、ニュース画面をキャプチャーしてすぐに報道に利用した。そして、米国でナショジオの記事が2020年7月14日に公開されると、イルワンディ氏のインスタグラムの投稿に34万人以上が「いいね」を押す。ちなみに米ナショジオのインスタグラムにもこの写真は投稿され、数時間で100万の「いいね」がついた。"  

 

インドネシア国内でも、始めはこのウィルスの怖さや、犠牲者家族の想像できないほどの悲しみ、予防措置の大切さなどの感想が目立ったといいます。

しかし、そのうちに状況は変化していきます。


まず、COVID-19対策チームの広報担当氏が情報を拡散。

インドネシア政府が、まだ若い彼(28歳)の倫理観に"疑問"を呈したりすることによって個人へと興味は移り、晒されていく彼のプライベートと拡散される捏造情報・・・・

その後、とあるインフルエンサーがイルワンディ氏を批判したことにより、ねじ曲がった情報は拡散の速度を上げていきました。


そしていつの間にか「一枚の写真が問いかけた"?"」は、彼の望んだ方向とはかけ離れた場所に進んでいってしまいました。


その後の取材で次の目標を聞かれたイルワンディ氏はこう答えています。


「しばらくは、おとなしくしていようと思います。」

この記事を読んだ後に筆者は、怒りにも似た悲しみに呆れも混じったような感情が自分の胸の奥にジトジトとへばりついている気がしました。


●「受け手」の責任


例えば絵画や音楽を鑑賞する時、事前情報なしでその時のインスピレーションを大事にするのも良いですが、作品の創られた背景・時代・その意図を知ることによって触れられる世界が喜びだったりします。
 
受け手がどう感じたのかを直ぐに知ることができる今の時代は、発信者にとって良い時代なのか、筆者はよくわからないでいます。
受け取ったイメージを何度も反芻して、「結晶」になった思いを胸に抱いていることを美学と思うのは、前時代的感覚なのでしょうか・・・

Photo by Kristina Tripkovic on Unsplash


イルワンディ氏がどんな意図でどんな気持ちを込めて何を伝えようと思ったのか、それが届いた人もいたはずです。

しかし、それを打ち消した「負」の感情を持つマジョリティ。
彼らは若いフォトジャーナリストのこれからを潰してしまいそうになったことへの自覚もなく、これからも過ごしていくのでしょう。


不確かでペラッペラのコピペのような情報が溢れる昨今。

彼のようなジャーナリストがいるからこそ、信ぴょう性のあるものになります。

現場で犠牲者にカメラを向けることに不謹慎だという声もあるのは確かですし、自身も時々報道の姿勢に疑問を感じることもあります。
それでも、彼らの報道への熱意とクリエイティビティ精神を潰してほしくない。


インドネシアにいると、噂ばかりが飛び交って、政府すら不確かな情報を公式で流してしまう・・という状況を多々目にします。

COVID-19の最初の感染者が出たときも、感染者本人やご家族のプライベートが晒されるようなことになっていましたよね。

何でも不特定多数に向けてSNSで共有できてしまう時代、共感と批判はいつも紙一重だと思います。問題は、頭の中がまとまらないうちに、影響力のある人の意見によって自分の思考を止めてしまうこと。


流されてないか?本当はどう思うのか?「自分」の意見を聞かせて。



と、筆者はいつでも自問したいと思うし、自問したほうが良いと思うのです。


●それぞれの倫理観

国や環境の違いで生まれてくる価値観の違いは、仕方のないことかも知れません。

本来イスラム教の社会に対するスタンスとしては、

"正しい道というものは神によって下された規範であって、イスラムが誕生して以来かわるものではない"  
_ヨーロッパとイスラーム 共生は可能か/内藤正典著 より

というのが敬虔なムスリムが多いアラブ諸国などでは根底にある理解のよう。
それがもとで、欧米のイスラム移民たちは独自世界を築いて孤立化しているため共生が進まないとも言われています。
(勿論、欧米側の差別などが複雑に絡んだ問題なのでどちらがどうと決めつけられることではありません。)

多様性が進むインドネシアにあてはまるのかどうかはわからないし、イスラム文化についてはまだまだ学ぶことがあるのは承知しています。

しかし、技術が発達するに伴い価値観の変化も進む時代に、宗教の倫理観は変わらないままで良いのかな・・と不安になるニュースも多いことは確か。


遺体を棺桶に納めたり感染を防ぐ処理をするなど医療科学の観点からであっても、イスラム教の慣習にないことを行ってしまうのは御法度。だから彼らは強奪だと思ってやっているわけではないし、寧ろ彼らにしたら『非常識な奴らめ、何してくれてんだ!』と憤る事項。

同じような事件が多発し、慌ててイスラム教の指導者は「政府に従う」声明を出したそうです(政府は取り締まる意向)。


たとえそれで感染が拡がって新たに死者が出ても、彼らには「良いこと」と言えるのか。

どちらの正義も正しくて、どちらも間違っているかも知れない。
誰かがジャッジできるわけでもない。

しかし、永遠に平行線で良いことなのか。

それがパンドラの箱を開ける事になったとしても、そろそろ考える時にきているのではないかと、個人的には思ってしまうのです。

この国の一人ひとりが自分の選択に責任を持つことで生まれる、新しい方向性を見たい。
変わってほしいなあ・・と心から願ってやみません。


●知ることと理解すること

日本ではお盆のお休みに入って、テレビでは戦争特集が多くなって、もうすぐインドネシアの独立記念日。

ここ半年で、全世界の人間の生活が大きく変わりました。
コミュニケーションの仕方も物凄い速さで変わっています。
テレビや新聞で報道されること以外に、SNSやYoutubeで発信される情報を個人で選択できる時代になりました。

「個人」の単位がこれからはどんどん強くなっていくでしょう。

Photo by Matthew Henry on Unsplash


インドネシアを始めとして、東南アジアの歴史を少し勉強してみた今年。
自分なりに考えたのは、「知ることと理解すること」をまずはじめてみようということです。

今まで「こうだ」と思っていたことが違うかも知れない。
既に学び直しをはじめて、現役の頃に学んだこととは違う部分も多々発見しました。

自分が不確かで、未熟で、まだまだ知らないことがあるからこそ出てくる素朴な疑問。
最近はありがたいことに小忙しくしているけれど、その疑問に一つ一つ向き合う時間をちゃんと作ってゆっくり考えてみたいと思います。
その先の、「自分」という個人の方向性について。

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